欲しかったものが手に入るのは、いつもそれをもはや欲しがらなくなった時、つまり、それを手に入れても冷静でいられるようになった時だ。 それらを欲しがらなくなった時こそ、それらをうまく扱えるようになった時なのだ。
「オーラ」とは他人にしか見えないものであり、しかも、彼らが見たいと思う程度にしか見えないものだと思う。 「オーラ」とは、口を開く前までにしか存在し得ないものに違いない。
例えば、5年ぶりに誰かに偶然会ったとして、お互いに大した反応を示さない時。 お互いの顔を見ても、一瞬たりとも動揺しない時、それが最高だ。 「最近どうしてた?」なんて聞かないし、近況報告もしようとしない。 とても平坦で、さっぱりしていて、何気ない。 それが最高の時だ。
人々はいつも、時が物事を変えると言うけれど、実際は自分で変えなきゃいけないんだ。
泣くことも笑うこともできる。泣いている時でも、いつでも笑うことができる。選択肢は自分にあるんだ。 狂った人々はこれを一番よく知っている。なぜなら、彼らの心は縛られていないからだ。 だから、心の柔軟性を活かして、それを自分のために役立てることができる。 何をしたいか、どう生きたいかは自分で決めるんだ。
僕は本当にひどい外見だし、おしゃれをしたり魅力的になろうなんて気はさらさらない。誰にも僕に恋してほしくないからね。 そういうことなんだ。自分の長所は控えめにして、短所を強調するんだ。 僕が決して崩壊しないのは、決して自分をしっかりまとめ上げたりしないからだ。
自分のような人間がするべきではないことは、決してするべきではない。 自分のような人間が言わないようなことは言ってもいいが、自分のような人間がしないようなことはしてはいけない。
決っして「それ」をしないことは非常に刺激的だ。 最も刺激的な惹かれ合いとは、決して交わらない正反対の二人の間で起こるものだ。 最高の愛とは、それについて考えない愛だ。 人々は目を閉じて恋に落ちるべきだ。 ただ目を閉じて。見ちゃいけない。
僕は「美人」にはあまり関心がない。僕が本当に好きなのは「話し手」だ。 話し手は何かをしている。美人は何かであるだけだ。
美はセックスとは何の関係もない。 美は美に関係し、セックスはセックスに関係するものだ。
神経衰弱の問題を抱えている人は、時にとても美しく見えることがある。彼らの動きや歩き方には、どこか壊れやすい何かがあるからだ。
物を見る時、僕はいつもそれらが占める空間を見ている。 その空間が再び現れてほしい、戻ってきてほしいといつも思っている。何かがそこにある時、空間は失われているからだ。 僕のお気に入りの彫刻は、向こう側の空間を縁取るための穴が開いた頑丈な壁だ。 何もない空間は決して無駄な空間ではない。 無駄な空間とは、そこにアートがある空間のことだ。
絵画に関する僕の直感はこう言っている。「何も考えなければ、それは正しい」と。 決めたり選んだりしなければならなくなった途端、それは間違ったものになる。 そして、決めれば決めるほど、間違いは大きくなる。
彼らは食べ物を売っているのではなく、雰囲気を売っているのだ。 「夕食に出かける」のではなく、ただ「雰囲気に出かける」ことになる。 僕が思いつく最高の雰囲気は映画だ。なぜなら、それは物理的には三次元で、感情的には二次元だからだ。
何かを一度だけやれば刺激的だし、毎日やっても刺激的だ。 でも、例えば二回とか、あるいはほぼ毎日とかだと、もう良くない。 その中間にあるものは、一度きりや毎日やることほど良くはない。
出典: 『アンディ・ウォーホルの哲学』 著者:アンディ・ウォーホル